竹やぶの生き方
大雨である。
畑にはいけないが、倉庫には選別すべき清見が積みあがっている。 以前は一日かかっていた仕事が、選果機を導入したおかげで、半日もかからなくなった。 今日はちんたら、選別だけをすればよい。 僕は、釈迦やキリストを大した人間だとは思っていない。いまや世界を席巻している仏教やキリスト教も、元はといえば「こう考えたほうが、楽とちゃうんか」という凡人の何気ない気づきである。はじめはちっぽけだった思想が脈々と受け継がれ、後の人がまた新たな気づきを付け加えたりするうちに、壮大な思想体系になった。 また、為政者が世を治めたり、強欲者が富を搾取したりするのに利用したため、巨大な建物やみごとな仏像とセットになり、実際以上の権力がまとわりついて、社会的にも得体の知れぬ強大な化け物のようになった。それが宗教である。 釈迦やキリスト個人と、宗教を混同してはならない。 「凡人の何気ない気づき」なら、僕もしている。そして、このブログにもその端々を書きとめている。哲学は、自分を超えることはできないと思っている。僕が生き、感じ、思いついたことも、人に伝えようとすれば単なる言葉になってしまう。 言葉の定義は人によって違う。その人の使う言葉は、その人の経験から作り出されたものだからだ。例えばある男が、経験上、豚をとてつもなくかわいいと思っているとして、ある女の子に、「君は豚みたいだね」と褒めたとしても、その女の子が経験上、豚を醜いと思っていたら、「醜い」と言われたと思って怒るだろう。 言葉とは、各人が自分の経験に基づいて概念を詰め込んだ箱である。箱の中身は本人にしか知れぬ。だから厳密に言えば、言葉によるコミュニケーションは不可能である。話がそれてきた。そんな分かりきったことは、どうだっていいのだ。つまりは今日も、独り言を書くということである。 宗教の話をしていた。 今の宗教は、大勢の人の気づきがどんどん付け加えられたり、為政者の都合のいい解釈が入ったりして、訳の分からぬものになっている。「仏教とは、つまるところこういう思想である」と明快に言い表せる人はいないのではないか。そういうものを、無理やりまとめる必要はない。そういうものに、振り回されなくってもいいのだ。都合よく解釈して、使えそうなパーツは頂いて、僕は僕の思想を、根っこから造ればいい。 僕は人の話や書物から、仏教の本義とは、「世俗を離れて修行をせよ」ということだと勝手に解釈している。「修行をせよ」については、僕も同感である。修行は楽しい。できないことが、できるようになる。耐えられなかったことが、耐えられるようになる。それは「自分」が存在する以上、疑いなく存在する一つの喜びである。その喜びを知れば、理論的にはどんな状況だろうと楽しくいられることになる。しかし「世俗を離れて」というのは、少し抵抗がある。「世俗」を離れることは面倒なことだ。まあそれも修行の一環と考えればそれですむが、欲を言えば修行の内容も自分で選びたい。 キリスト教の本義とは、「人とのつながりに喜びを見出せ」ではないかと思う。人と結ばれたければ、まずこちらから愛さねばならぬ。だから「隣人を愛せ」というのだろう。「神を信じよ」とは、それを可能にするための自己暗示である。「苦しくても、いつか必ず救われる」と信じ込むことで、自分がどんな苦境に居ようと、隣人を愛し続けることができる。 「いつか必ずいいことあるから、いやなことがあっても我慢して、まわりの人と円満に暮らしなさいよ。」これがキリスト教である。「神」の正体は、他愛もない、「いいこと」である。これが後の権力者に利用され、神とは何か仰々しい、恐るべきもののように仕立て上げられたのではないか。 仏教は個人主義、キリスト教は他者とのコミュニケーションを重んじる思想である。あれ?でもアメリカは個人主義で、東アジアは共生的である。社会のあり方に対するストレスから、逆の思想が支持されるのかな?これも自然界を支配する「あまのじゃくの法則」の一つだろうか。 (イスラム教は、知る機会がなかった。ここの読者でコーランを愛聴している芋さんなら、その真髄を語れるやもしれぬ。) 僕は宗教には縁遠かったので、それらを意識することなく育ったが、仏教文化圏にいるのでその影響が強いと思う。あるいは気候・風土や、生物としての性質もあるだろう。 僕の教義は、「修行をせよ」である。何も世間と自分を切り離すことはない。そんな面倒なことはせず、世間の中で修行すればよい。人間も自然の一様相に過ぎぬ。人とのかかわりが煩わしいからと山にこもったところで、今度は雨漏りやイノシシと闘わねばならぬ。 修行は楽しい。子供のころに親しんだ数々のRPG、鳥山明の「ドラゴンボール」、吉川英治の「宮本武蔵」、漱石先生の「野分」などの影響も、あるかもしれない。哲学に、高尚・低俗はない。自分にしっくりくる思想が自分の道で、それが記されている書物が自分の聖書であろう。 これらの書物に反応して自分が形成されたということは、先天的な自分の本性もそれに適していたのだろう。強くなって、闘って、勝ちたいということ。ごろりと横になって、誰にも指図されず、ものぐさたろうのように生きていたいということ。相反するが、これが僕の根源的な欲求である。 キリストの提唱する「愛の喜び」は、実を言うといまいち実感がわかない。まあ、全くないわけではないし、強さだけを追い続けたべジータが、最終的には仲間や家族との絆に喜びを見出すように、いずれそれを知る日が来るかも知れぬ。だから否定はしない。 が、今はある程度、周囲にウソをついているのも事実である。多少の愛を、義務的に演じてはおる。近しい人や、敏感な人にはすぐ悟られるが。 はじめは嫌なことでも、やっているうちに楽しくなってくる場合もある。「修行」がそうだった。「愛」もきっと、そうなんだろう。今は、ようやく見つけた修行の楽しさを追っていたい時期である。修行に飽きたころ、愛を追求し始めるかも知れぬ。僕がキリスト的に生きるのは、もう少し先であろう。 それまでは、「愛の欠如」ゆえに様々な苦難が降りかかるだろう。だがそれらを修行としてとらえ、工夫と研鑽を積んで克服していくつもりである。今あるものをとことん楽しんでから、次のものに手を出すのが僕のやり方である。
by takeyabubass
| 2006-04-02 09:02
| 思想
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