ヤブログ本館

カテゴリ:思想( 39 )

ムダ記録

青年部の演説の県大会で最優秀賞になり、近畿大会にいくことになった。久しく書き込みもせず、作文能力がなまっていて大変だった。誰が聴いてもわかりやすく、ありきたりでなく、体験に基づいていて、希望に満ち溢れた文章を意図的に生産した。
しかる後、青年部の幹部たちから過度の接待を受けた。料理屋でたらふく食べた後、カラオケバーのようなところに連れて行ってもらった。ホステスは着飾ってタバコをふかし、こちらが話さないと決まり悪そうにしていた。ああ面倒くさい、プロだろうが、場を持たせろよと思いつつ、どうでもいい話題を提供する親切な竹やぶ。人の車できているので、「つまらんから帰ります」とも言えず、最後のほうは座禅を組んで瞑想していた。帰ったら11時だった。もう懲りたので、今後は一次会で退散しよう。

わが市が多大なる血税を投入して行う夏祭りに参加した。「おかさ」という巨大な木の車を、大勢の若者が朝から晩までかけて、町中を引き回す。苛酷な労働である。ピラミッドの石を運ぶ奴隷のような感傷に浸りながら、陽炎の立ち上る炎天下の中、丸二日間やった。おかさは全部で9台ある。夜は神社に集結し、ライトアップをして、夜店や人ごみの中を行ったりきたりする。町の経済規模に対して祭りが大きすぎるきらいがある。生活と祭りはバランスをとるべきなのに、不景気な商店街が無理して祭りを続けている。何かしら悲壮であった。

新聞に、「正しい慣用句を使えない人が増えていて問題である」との記事があった。その根拠となる細かなデータも載っていた。いったい誰が、何を考えてそんな調査をしたのか。「俺は正しい言葉を知っているぞ!」と自慢したいのか。それとも無理やり問題をでっち上げないと食っていけない輩か。
多くの人が手軽に使えない時点で、慣用句としての価値はない。死ぬべき言葉は死に、変わるべき言葉は変わればよい。そんな瑣末をあげつらって「問題である」だなんて・・・。

「文化」という大義明文を盾に、あまりにも多くのムダが許されすぎる風潮がある。それは日本が爛熟している証でもある。日本は、おおいなる酔いどれの国である。
[PR]
by takeyabubass | 2006-07-27 13:36 | 思想

強烈な思い

「守拙」
という言葉がある。夏目漱石が好んで使っていた。出典は定かでない。読んで字のごとく、「つたなきを、まもる」ということだ。諸芸において、下手なのが良い、という考えだ。僕も大いに賛成である。

何かにつけて、上手いものが優れていて、下手なものが劣っているという考え方が常識なので、ある程度は不本意ながらも合わせているが、僕の根底にも守拙の念がある。

いや、功より拙が優れているというのではない。功も拙もない、そこに君がいて、僕を認めてくれるのなら、それはもう絶対的な価値である。しかし世の中は功なるものを優遇する。守拙というのは、「そうではない、存在はみな、絶対的な価値だ」という意地である。
功なるものを礼賛せず、また自分もあえて拙なるものをさらけ出すことで、価値観の画一化という流れに抗っているのである。でなければ、僕はより功なるものに支配されるであろう。人から認められようと、より高いところを目指してがんばっている人は僕の敵である。

理想とは、人に迷惑をかけず、自分の中だけで追い求めるべきだというのが成熟した大人の考えだと思われる。
[PR]
by takeyabubass | 2006-06-25 21:41 | 思想

重要なこと

現実とゲームの大きな違い。

ゲームでは、一つ有利な方法を見つけたら、そればかりやればいい。最高レベルの魔法を覚えたら、基本的にそればかり使えばいいのだ。「氷系の魔法ばかり使っていたら、最近冷え症になって・・・」などということはおこらない。設定されていないパラメータは、「減らない」のが原則なのである。だから飲まず食わずで、永遠に走り続けられる。

現実ではそうはいかない。一つの方法だけに頼っていると、ひずみが出てくる。
雑草の管理には、いくつかやり方がある。
除草剤が楽だからと、そればかりやっていたら土がやせてくる。畑が侵食されていく。木が角ばってくる。ヘクソカズラや潅木ばかりが増えてくる。
草刈をやるにしても、コードソーばかり使っていると茶やビシャコだけが徐々に勢力を増してくる。時には重たくても、チップソーを使わねばならない。

現実では、「減らないパラメータ」はないのだ。
ある空間の均衡を保つためには、あらゆる角度からのアプローチが常に必要なのである。

何事も、ゲームの様に特化しすぎてはいけない。
焦点を、絞りすぎてはいけない。
遠大に、余裕を持って、構えていればいい。
一見不合理なことでも、自信を持って続けてよいのだ。
[PR]
by takeyabubass | 2006-06-06 00:55 | 思想

ムダムダムダムダ・・・!!

巨大なスーパーに、あまたのコンビニに、無駄なものばかりが並んでいる。
本当に必要なものを選んで、無駄な売り場を整理したら、もっとすばらしい町ができよう。

近所には、本当に必要なものだけを、古びた小さな木の家に効率よく納めている店がある。夫婦が営む日用雑貨店である。

結婚式の朝、白い靴下を用意し忘れていることに気づいた。「コンビニにあるだろう」と行ってみたが、黒い靴下か、白くてもくるぶしまでの、やたら短いものしかなかった。使えん。8時頃なので、スーパーは空いていない。「そうだ。あそこにはきっとある」と、その商店に行ったらあった。助かった。

除草剤を潅木の切り口に塗るために、細めの絵の具筆を欲しく思い、スーパーにいったが気に入ったサイズのがない。「あそこにはきっとある」と、例の商店にいったらあった。「絵の具筆、ないですか?」と聞いたら、細いのから太いのまで、箱から出してずらりと並べてくれた。感動した。この店には、何でもある。

一見狭いこの店のほうが、巨大なスーパーよりも品揃えがいいのはなぜだろう?今日、秘密が少し分かった。そこは、人が営む店なのである。コンビニには、人はいない。人に見えるのは、雇われたレジ打ちマシーンである。お客さんは、自分の欲しいものを自分で選び、レジに持っていくとマシーンがお金を受け取るだけの仕組みだ。よって品物は、全てお客さんに見えるよう陳列せねばならぬ。

その商店では、多くの商品は陳列されておらず、収納されている。そして、「何々が欲しい」というこちらの要望に従い、ご主人か奥さんが、棚からそれを出して並べてくれるのだ。だから狭い敷地内で、より多くの商品を扱える。

「人を使わないこと」が効率の良さの象徴の様に言われている。確かにその一面もあるが、偏りすぎてはいけない。人のかわりに希少な土地や資源を食い散らかし、技術を磨かぬ人そのものは腐っていく。ゆとりある空間を追われ、哀れな箱にぎゅう詰めになって暮らす。

僕は自分の生き方を通して、「人間革命」を世に提唱する。人間の持つ力をもっと発揮し、人の活動や、意識で満たされた空間を取り戻したい。自分がそうあるだけでなく、そういうところからものを買いたい。

いや、単なるギャグだがね。
[PR]
by takeyabubass | 2006-06-06 00:30 | 思想

上等、下等

村上ファンドの総大将が逮捕された。
彼が、私たちよりも下等な人間であることが判明したわけだ。

押しなべて、お金をたくさん儲けたがる人は下等である。少ないお金で幸せでいられる人こそ、上等である。なぜなら、社会の富の総和は急に増えたりしない。誰かがたくさんガメたら、その文誰かが貧しくなる。富は分け合うべきである。

お金をたくさん儲けて、その金で慈善活動をするというのも馬鹿げている。それまでの経済活動の罪をわびる気持ちで、「寄付させていただく」というならまだいい。己のバカさ加減を知るだけ優秀である。慈善活動をする自分を上等な人間と思い込んでいるやつは、救いようがない。虚名を求める、超下等生物である。

本当の慈善活動とは、誰にも恩を着せない。自分が生活できるだけの富を持って、残りのエネルギーを日々周囲のために使っておれば、大きな財産など出来るわけがない。それをしないから金がたまるのである。財産が出来るという時点で、社会にとってはマイナスの存在なのだ。金を持っているほど下等なのである。

僕は、上等な人間である。
なぜなら、毎日くたくたになるまで働いているのにお金は貯まらない。でも日々楽しく、幸せである。虚名に踊らされ、がめつく肥え太った醜い下等生物どもは、ぜひとも僕を見習うべきである。
[PR]
by takeyabubass | 2006-06-06 00:00 | 思想

僕は親切

とある新聞に、こんな記事があった。

ある公共機関の職員が、小学生にエイズの説明をするときに、
『エボラ出血熱などは、感染したら患者はすぐに死んでしまうので、人にうつる可能性は低い。それにひきかえエイズは、感染したからといってすぐには死なないので、人から人に伝播して広がりやすい。』

といったのだそうだ。
ある生徒がこれを聞いて、授業の感想文に、「エイズ患者は早く死ねばいいという表現はどうかと思う」と書いた。それを問題視した上部組織が、説明をした職員を処分した。

記事には、それへの反駁が書かれていた。
「職員は、『エイズ患者は早く死ねばいい』などとは一言も言っていない。むしろ彼の客観的な表現を、勝手に解釈して誤解した生徒の言語能力のまずさを、教育者は問題視すべきだ」という内容であった。

その通りである。
言葉を客観的に受け取れない人に、困らされることはしばしばある。
たとえば、「あの子はかわいいね」というと、「どうせ私はブスですよ」という人。「ああしんどい」というと、「私がしっかりしていないからダメなんだ」と受け取る人。こっちはそんなつもりで言っていない。しんどいというのは、単なる独り言である。しんどいのは嫌だとも言っていないし、君は無能だとも言っていない。そういうべきときははっきり言う。

他人の言葉で必要以上に傷つく人というのは、要は自己中心的なのである。相手も、自分と同じような思考回路を持っているのだと勝手に解釈している。

そうではない。言葉の定義というのは、一人一人全く違う。僕が「懐かしい」と呼んでいる感情を、「寂しい」と呼んでいる人がいても全然おかしくない。だけどそれでは不便なので、一応みんなが共通して使えるようにある程度取り決めをしている。辞書に載っている意味がそれである。(所詮は辞書も言葉の集まりなので、厳密に言うと無意味だが。)一応、他人と会話をするときは、「自分の言葉」ではなく「辞書的な言葉」を使うのが礼儀である。そうしないと言葉によるコミュニケーションは不可能になる。

僕は少し前まで、務めて「辞書的な言葉」を使うよう努力してきた。しかしそれによって傷つく「ジコチュー」がわりと多いので、変化を迫られた。今では、「相手の言葉」を使うよう努力している。なんて親切な僕。

本来、「自分の言葉」と「相手の言葉」の間に「辞書的な言葉」があって、会話の際は公平性を期するため、みんなが「辞書的な言葉」を使うことが望ましい。しかしそれが出来ない人が多いので、僕は相手に応じて、「相手の言葉」ばかりを使わねばならない。「自分の言葉」どころか、「辞書的な言葉」までをも捨てて。

中途半端だがこれで終わり!
なにごとも、中途半端が一番である。というか完結するような話題などない。思索の続きはそのまま放置しておくべきものである。気が向いたらまた続きを考える。
[PR]
by takeyabubass | 2006-05-23 16:47 | 思想

ゲームオタク 竹やぶ

とある新聞の社説に、こんなことが書いてあった。

「多くの若者は自己中心的である。自分以外はみな利害対立者であるという、ぎすぎすした世の中である。個人主義が行き過ぎて、孤人主義になってしまった。これは家族機能の崩壊が原因である。だから国は、家族の絆を深めるような政策を打ち出さねばならない」


僕がおもしろがったのは、家族機能うんぬんよりも、「孤人主義」を嘆く筆者の心境である。

戦時中は、「みんなでがんばって、戦争に勝とう!」というムードがあったので、なんとなく同じ方向に、国民が向かっていった。戦後から高度成長期にかけては、みんな貧困だったので、「一緒にがんばって、豊かな日本にしよう」というムードがあったようだ。で、力を合わせて働いた。

その結果、豊かな日本が実現した。戦争も、放棄して久しい。目に見える問題は、あらかた片付けてしまったのである。国民的課題は、今のところ無い。その時点で、もっと豊かになりたい人、現状でいいという人、現状でもしんどいのでもっと貧しくてもいいという人・・・、人は様々なほうを向きはじめた。そこで自分の持ち物を携えて、今度は自分の好きな方向へ行ってみようという時代になった。つまり価値観が多様化した。

そうなって、だいぶになる。日本社会は、新たな局面を迎えつつある。みんながてんでばらばらに自分の行きたい方向に流れた結果、「二極化」が表面化しつつある。時代は、混沌から定型的なものへと進行しつつある。
経済的にも、知能的にも、体力的にも、技術的にも、道徳的にも「貧富の差」が顕在化している。まあ、あわてることはない。パラメータはたくさんあるのだ。経済的に貧でも技術的に富であれば、経済的に富で技術的に貧な人には必要とされる。


つまり僕がその新聞記事を読んで思ったことは、「言っても仕方ないことを言っているなあ」ということだ。課題も無いのに国民が同じ方向を向くことはない。かといってわざわざ課題をこしらえるのも面倒である。隣を見れば、Aさんは北に向かっている。Bさんは、東に向かっている。Cさんはその場でじっとしている。Dさんに至っては、地中へ向けて掘り進んでいる。そんな中、俺はどうあるべきか?

・・・自分をしっかりもって、自分の信じるほうへ行くしかなかろう。その中で、同じ道を歩む友に出会ったり、だれかと衝突したり、別れたりする。
うおお!!なんて楽しいんだ。集団から離れても、あちらには別の集団がたむろしている。こっちに数人、あっちに1人いる。好きなやつと組んで、好きなことをすればいいのだ。それを楽しめないなんて、かわいそうな人である。まあそういう人は、比較的大きな集団に入って、方向性を与えてもらうといい。大集団の中から、自分たちと別の方向へ行く数人の若者を見咎めて、「おい、そっちに行ってはいけない!!」と喚いている。そんなやつらがいるのもまた、楽しい。そんな人たちが、ときに立ちはだかってくればもっと楽しい。戦う。逃げる。神妙に仲間入りするふりをして、機を見て裏切る。その組織を乗っ取る。いろんなことができる。
時に友情に浸り、時に愛におぼれるのもいい。わが子をかわいがるのもよし、趣味に打ち興じるのも素晴らしい。「これだけは、常に無くてはならない」というものは無い。あらゆる道に、世界は用意されている。楽しみも用意されている。だから、一つの場所、一人の仲間、ひとつの道具にこだわる必要は全く無い。時間は無限に続き、空間は無限の広さを持ち、選択肢は無限通りあるのだ。(何度も言うが、死は終わりではない。また新たな世界で、自己は続いていくというのが僕の信条である。)

多くのコンピュータゲーム中毒者が、死ぬまで入り浸れない原因はここにある。多くの人は、「これじゃいけない、現実世界でがんばらなくちゃ」という焦燥感を持ち始める。これは、現実が最大のゲームだからだ。もっとも広く、臨場感もあり、公式ルールに乗っ取っており、最大級の権威を持つリアルゲームを尻目に、誰かが作ったちっぽけなコンピューターゲームの中で汲々とレベル上げをすることがいかに虚しいか。現実に身をおくからこそ、気づきたくなくても、気づかずにはおれない。

雨が降ってゐる。畑には行かない。農作業以外にも、上げるべきパラメータは無数にある。「何もしない」ことでしか、あがらない能力もある。
何だか世界が、急に新鮮味を増してきたぜ。
[PR]
by takeyabubass | 2006-05-07 07:20 | 思想

クライマー

同じことを何度も書くということは、いつも同じことを考えていると言うことだ。

僕は、農業にしろ家庭教師にしろ、我流であるということに少なからず葛藤を抱いている。そりゃたまには本を読んだり講習を受けたりもするが、「1人の師匠から体系的な技術を習い、それを忠実に守る」ということをしていない。それは一つの弱さであると思う。強さでもあるのだが。

まわりの青年農家は、30台くらいまではたいてい父親が経営権を持っており、程度の差こそあれ、それに従っている。その間に基礎的な技術をこつこつと蓄えるのである。そうして経営権を継いだころには、あらゆる作業がある程度熟達している。そこで余裕を持って、「経営」に専念できると言うわけだ。

接木を習得したければ、ひたすら接木をすればいい。親父が元気に農業をしていれば、息子はそうすることができる。しかし、僕は一人である。接木ばかりはしておれぬ。基礎技術が未発達のまま、経営も同時に行わねばならぬ。これは大変なことだと、近頃実感している。

それでもやらねばならぬ。いや、やりたい。僕は祖父から、「技術」というべきものをあまり教わっていない。祖父は我流でやってきた。お前も我流でやれ、というスタンスである。まあヘタに他人の我流を押し付けられたり、古い技術を強制されたりするよりはよほどいい。ただ一年の基本的な作業の流れと、主なる機械の使い方は一緒にやる中で学んだ。確定申告だけは、詳しく教わった。もし僕が、試行錯誤の末農家としていっぱしの収入を得られるようになったとしたら、これは画期的な出来事である。「二年間、農業専従者として働けば、傾斜地農業でも自立できる」ということが証明される。

我流の壁は、常に感じている。技術のなさを、実感している。しかしだからこそやりがいがある。「壁があるから通れない」とは思わない。壁があったら、よじ登るまでである。取っ掛かりがなければ、脚立を持ってくればいい。それでも届かなければ、より長い脚立を探してくればいい。やり方は、いくらでもあると思う。
最近は何をやるにも、「半分の労力で、同じ成果を得られないだろうか」と思案しながらやる。なんとかしてやろうと思えば、できそうな気がするのだ。画期的な大革命でもいいし、小さな改良を積み重ねた結果でもいい。

「決まった仕事を、同じやり方で、一生懸命やる」というのも、価値あることかもしれない。だが見方を変えれば、「頭脳的に怠惰」ともいえる。同じことを繰り返すのは、楽なのだ。楽なことを美化してしまえば、成長はそこで止まる。
何とかして、我流でも一人前の農家兼家庭教師になりたいものである。
[PR]
by takeyabubass | 2006-04-29 22:58 | 思想

我以外皆我が師

ある本で、「武道の世界では、3年間、我流で必死にやるよりも、3年かけてよい師匠を探したほうが、結局は大成する」と書いてあった。

その通りだと思う。

だが、一人の師匠の言うことだけを聞いて、その小さな世界の中だけで生きていては、いくら強くても、人間的な色彩は乏しい。本当に素晴らしい人は、自分自身もプロフェッショナルでありながら、世界にも刺激を与え、また世界から刺激を受け、仲間と協力し合って何かを成し遂げる。

師匠は、身近にも、世界のいたるところにもいて、自分に学ぶ気があれば、誰からでも、何かを授かることができる。血眼になって理想の師匠を一人見つけるのもアリだが、まあそんな師匠は引っ張りダコだろうし、法外な報酬を払わねばならん場合もある。貧乏人には難しい。「周囲にある材料で、素晴らしいものを作る」というのが僕のスタンスである。

そんな僕が重要だと思うことは、あらゆるものを師匠にする「師匠化力」と、より短期間で師匠の技をマスターする「吸収力」である。

そこで必要になるのが、矛盾するようだが、「我流で実行できる力」である。
師匠の技を、全て模倣するのは不可能だ。例えば「接木」にしても、「台木と穂木の形成層をくっつける」というポイントは簡単に教われるが、「穂木の切り方は、腹面が5度、背面が60度」というところまで言語化して覚え、その通り実践するのは面倒だし、ナイフを使うときの筋肉一つ一つの動きを全てそっくりマスターするのはさらに不可能だ。

「形成層をくっつける」「接木部分に、雨水が入らないようにする」というポイントだけを教わり、それさえマスターすれば、あとは我流でかまわないと思う。というかむしろ、我流の気概がなければ、師匠が示した「ポイント」と「ポイント」を実践で結ぶことはできない。多くの人は、そんなに暇ではない。何においても、付きっ切りで教えてくれる人などいない。ならば、一目見て、覚えてしまえばいいのだ。ポイントさえ押さえれば、やりかたは我流でも、それなりの結果が出る。道は一つではないのだ。

「模倣力」といっても、いいかもしれない。
それを鍛えておけば、あらゆるものを師匠化できる。
あらゆる人との出会いが有益なものとなる。
[PR]
by takeyabubass | 2006-04-23 12:54 | 思想

竹やぶの生き方

大雨である。
畑にはいけないが、倉庫には選別すべき清見が積みあがっている。
以前は一日かかっていた仕事が、選果機を導入したおかげで、半日もかからなくなった。
今日はちんたら、選別だけをすればよい。


僕は、釈迦やキリストを大した人間だとは思っていない。いまや世界を席巻している仏教やキリスト教も、元はといえば「こう考えたほうが、楽とちゃうんか」という凡人の何気ない気づきである。はじめはちっぽけだった思想が脈々と受け継がれ、後の人がまた新たな気づきを付け加えたりするうちに、壮大な思想体系になった。
また、為政者が世を治めたり、強欲者が富を搾取したりするのに利用したため、巨大な建物やみごとな仏像とセットになり、実際以上の権力がまとわりついて、社会的にも得体の知れぬ強大な化け物のようになった。それが宗教である。

釈迦やキリスト個人と、宗教を混同してはならない。

「凡人の何気ない気づき」なら、僕もしている。そして、このブログにもその端々を書きとめている。哲学は、自分を超えることはできないと思っている。僕が生き、感じ、思いついたことも、人に伝えようとすれば単なる言葉になってしまう。
言葉の定義は人によって違う。その人の使う言葉は、その人の経験から作り出されたものだからだ。例えばある男が、経験上、豚をとてつもなくかわいいと思っているとして、ある女の子に、「君は豚みたいだね」と褒めたとしても、その女の子が経験上、豚を醜いと思っていたら、「醜い」と言われたと思って怒るだろう。

言葉とは、各人が自分の経験に基づいて概念を詰め込んだ箱である。箱の中身は本人にしか知れぬ。だから厳密に言えば、言葉によるコミュニケーションは不可能である。話がそれてきた。そんな分かりきったことは、どうだっていいのだ。つまりは今日も、独り言を書くということである。

宗教の話をしていた。
今の宗教は、大勢の人の気づきがどんどん付け加えられたり、為政者の都合のいい解釈が入ったりして、訳の分からぬものになっている。「仏教とは、つまるところこういう思想である」と明快に言い表せる人はいないのではないか。そういうものを、無理やりまとめる必要はない。そういうものに、振り回されなくってもいいのだ。都合よく解釈して、使えそうなパーツは頂いて、僕は僕の思想を、根っこから造ればいい。


僕は人の話や書物から、仏教の本義とは、「世俗を離れて修行をせよ」ということだと勝手に解釈している。「修行をせよ」については、僕も同感である。修行は楽しい。できないことが、できるようになる。耐えられなかったことが、耐えられるようになる。それは「自分」が存在する以上、疑いなく存在する一つの喜びである。その喜びを知れば、理論的にはどんな状況だろうと楽しくいられることになる。しかし「世俗を離れて」というのは、少し抵抗がある。「世俗」を離れることは面倒なことだ。まあそれも修行の一環と考えればそれですむが、欲を言えば修行の内容も自分で選びたい。

キリスト教の本義とは、「人とのつながりに喜びを見出せ」ではないかと思う。人と結ばれたければ、まずこちらから愛さねばならぬ。だから「隣人を愛せ」というのだろう。「神を信じよ」とは、それを可能にするための自己暗示である。「苦しくても、いつか必ず救われる」と信じ込むことで、自分がどんな苦境に居ようと、隣人を愛し続けることができる。
「いつか必ずいいことあるから、いやなことがあっても我慢して、まわりの人と円満に暮らしなさいよ。」これがキリスト教である。「神」の正体は、他愛もない、「いいこと」である。これが後の権力者に利用され、神とは何か仰々しい、恐るべきもののように仕立て上げられたのではないか。

仏教は個人主義、キリスト教は他者とのコミュニケーションを重んじる思想である。あれ?でもアメリカは個人主義で、東アジアは共生的である。社会のあり方に対するストレスから、逆の思想が支持されるのかな?これも自然界を支配する「あまのじゃくの法則」の一つだろうか。
(イスラム教は、知る機会がなかった。ここの読者でコーランを愛聴している芋さんなら、その真髄を語れるやもしれぬ。)

僕は宗教には縁遠かったので、それらを意識することなく育ったが、仏教文化圏にいるのでその影響が強いと思う。あるいは気候・風土や、生物としての性質もあるだろう。

僕の教義は、「修行をせよ」である。何も世間と自分を切り離すことはない。そんな面倒なことはせず、世間の中で修行すればよい。人間も自然の一様相に過ぎぬ。人とのかかわりが煩わしいからと山にこもったところで、今度は雨漏りやイノシシと闘わねばならぬ。
修行は楽しい。子供のころに親しんだ数々のRPG、鳥山明の「ドラゴンボール」、吉川英治の「宮本武蔵」、漱石先生の「野分」などの影響も、あるかもしれない。哲学に、高尚・低俗はない。自分にしっくりくる思想が自分の道で、それが記されている書物が自分の聖書であろう。

これらの書物に反応して自分が形成されたということは、先天的な自分の本性もそれに適していたのだろう。強くなって、闘って、勝ちたいということ。ごろりと横になって、誰にも指図されず、ものぐさたろうのように生きていたいということ。相反するが、これが僕の根源的な欲求である。

キリストの提唱する「愛の喜び」は、実を言うといまいち実感がわかない。まあ、全くないわけではないし、強さだけを追い続けたべジータが、最終的には仲間や家族との絆に喜びを見出すように、いずれそれを知る日が来るかも知れぬ。だから否定はしない。
が、今はある程度、周囲にウソをついているのも事実である。多少の愛を、義務的に演じてはおる。近しい人や、敏感な人にはすぐ悟られるが。

はじめは嫌なことでも、やっているうちに楽しくなってくる場合もある。「修行」がそうだった。「愛」もきっと、そうなんだろう。今は、ようやく見つけた修行の楽しさを追っていたい時期である。修行に飽きたころ、愛を追求し始めるかも知れぬ。僕がキリスト的に生きるのは、もう少し先であろう。

それまでは、「愛の欠如」ゆえに様々な苦難が降りかかるだろう。だがそれらを修行としてとらえ、工夫と研鑽を積んで克服していくつもりである。今あるものをとことん楽しんでから、次のものに手を出すのが僕のやり方である。
[PR]
by takeyabubass | 2006-04-02 09:02 | 思想



架空の人物「竹やぶ」のブログです。書いてある出来事はフィクションです。論や思想も、架空の前提をもとに展開されているため「筆者の意見」という訳ではありません。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
リンク

LetMeBeThe犬!(レット・ミー・ビー・ジ・ワン!)
松本リューのブログです。6年来の友人です。繊細な感覚と親しみやすい文体で、音楽評論や黄昏流星群をつづっています。

私たちの地域研究所
んまさんのブログです。農機具の部品を作っておられます。冷徹な考察と、実地でのたゆまぬ努力に基づく地域政策は、まさに圧巻です。

喫茶ゴリラ
幼なじみのご両親が営む、喫茶店のHPです。マスターと話していると、いい考えが浮かびます。近い将来、僕の音楽活動の拠点にできたらなあ。

晴漕雨読
友人、かまたにさんのブログです。仕事、読書、ネット、自転車と、非常にコントロールされた生活が伺えます。あくなきストイシズム。

ぷは  ジコチュ日記
後輩、ホトリさんのブログです。現役女子大生の苦悩と諦観がにじみ出ています。痛かわいい。

駄目ぱんだ日記
ペン裏ソフト、ドライブ攻撃型のmisutinさんが兄妹で管理するブログ。内容は、アニメやゲームの批評など。辛口です。

N-style
愛媛のアカペラバンド、 ながはまーずのHPです。今は活動していませんが、再結成の可能性は高いです。

ヤブログ別館
竹やぶの写真館です。

竹やぶの里
竹やぶのホームページです。ここから筆者にメールできます。リアルな筆者への問い合わせは、こちらからお願いします。
以前の記事
最新のトラックバック
テラびしょびしょw
from お・な・に・ぃ
alberta weat..
from alberta weathe..
負けても勝ち組w
from ドンパッチ
ben harper l..
from ben harper lyr..
the war and ..
from the war and pe..
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧