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カテゴリ:過去( 6 )

桜の道

大学時代は、桜の花に縁取られた、長く壮大な夢であった。道後公園。石手川。松山城。桜並木をあるく僕の気分は、きわどい一本の弦の上にあった。希望が、少し傾くと不安に変わる。嬉しさと空しさの間を、纏綿といったりきたりする。その根底では、「どうでもよさ」と「衝動」が、踏み切りのランプのように、とどまることなく入れ替わっている。

もとより言葉は不完全である。既存の言葉が、自分のなかの「感じ」をぴったりと言い表すことなどありえない。むしろ、自分で好き勝手に作っていくべきものかもしれない。
言葉は、妥協の産物である。著述をする僕は、日々妥協している。言葉をさがすことは、妥協点を探すことである。しかし、その点を、少しずつでも理想のほうへもっていきたいと思いながら書いている。

ああ。「感じ」を射抜く「ことば」がほしい。もどかしい。


そう感じられるようになって嬉しい。あるものの彼方へ、自分が歩んでいるということである。それは自分だけの世界である。誰もいない。

日を透すほど薄い、ふれると溶けてしまいそうな花びらが、何億光年の碧さのなかで、ゆらゆらと揺れている。
他者は世界である。
世界とは自分である。
うそさむい風と、うらあたたかい日差しのなかで。
上着のポケットに手を突っ込んで。
僕はひとりであるいている。

この感じ。ああこれだ。松山の、桜並木を歩いていたころの僕とおんなじだ。夢は今も、つづいている。
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by takeyabubass | 2006-03-05 20:22 | 過去

大学時代の著述

人生は、不可逆なステージ進行の連続である。「あのステージに、もう一度戻りたい」と思っても、それはかなわぬ。もう一度再現しようとしても、自分が変質している以上、自分が感ずる世界もまた変質している。まあ、そんなわかり切ったことはどうでもいいのだ。つまり、今日もまた過去のことを書くということだ。

大学時代に入っていた合唱団は、80人からの団員がいた。組織は本格的で、広報誌も定期的に発行されていた。そこに僕は、毎回のように自伝的著述を投稿していた。
僕は、印象に残った夢をできるだけ克明に文章化していた。夢なので、起こる出来事はありえないことだが、それを体験する自分自身は、紛れもないふだんの僕であった。夢の中といえども、世界の法則性が変わるだけで自己はなんら変質しておらぬ。だから夢を書くことは、現実を書くことと同様に価値があると思っている。

だから、芥川龍之介がその著書で、「他人の夢ほど、読まされておもしろくないものはない」と言っているが、僕はそうは思わない。上っ面はありえない話にしても、そこで生じる心理的な動きは真実なのだ。そう、夢もまた、わが身に降りかかった真実なのだ。そこに人の機微を見つけることができない者は、たとえノンフィクションを読んでもむなしいと思う。


  「骨肉の愛」

 一日の業を終えて、A(女)と帰路に着いたのは夜の10時をすぎていた。
 僕は町の隅っこで、ダンボールの家に住んでいた。地面には木の板を敷き、部屋は一つで毛布だけがあった。家具はなかった。その家には、僕の恋人のBと、2人の幼いのがいた。幼いのは妹や弟か、自分の子か知れなかったが、4人はいつもくっついて眠った。そうやって、1つの毛布で寒さは十分しのげた。

 その日は帰りが遅くなったので、幼い2人が僕を探しにきていた。僕は向こうからその2人がやってくるのがわかった。2人は僕に気づいていなかった。僕はもう少しAといたかったので、幼い2人に見つからないよう角を曲がった。彼らは僕らに気づかず通り過ぎた。僕はAと2人でしばらく歩いた。僕はAに悩みを打ち明けた。
「僕はだめなやつだ。僕は無能でかつ怠惰だ。僕は自分の力で何も得られない。人から何かをもらう資格もない。」
僕はAと別れて、一人寒い道を、家に向かった。
 
ダンボールの中は、寝臭くあったかかった。Bが独りで寝ていた。僕は彼女にくっついて毛布をかぶった。幼い2人も、すぐに帰ってくるだろう。あったかい毛布の中で、「骨肉の愛」という言葉が思い浮かんだ。僕がどんなに無能でも、僕が何を失っても、僕が手を離さない限りそこにあるものであった。僕さえ手放さなければ、僕は永遠に幸せなのだ。

「Muse95号」より
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by takeyabubass | 2006-02-28 22:08 | 過去

怠惰ループ

何回か書いたが、大学時代には怠惰な生活をほしいままにしていた。何をするのも面倒だ、面倒だから死のうか、いや死ぬのもまた面倒だ、などと考えていた。だがそんな自堕落の中にも、「これじゃいけない」という内なる反発があった。怠惰な自分は、それらしい理由を見つけて内なる自分に言い聞かせていた。 

そのときに思いついた技の1つに、「怠惰ループ」というのがある。

ベランダに鳩が巣食っていることは、あらゆる面で僕の生活に害をもたらした。ベランダは羽と糞に満たされる。窓を開けていると入ってくる。早朝から深夜まで鳴き声、羽ばたき、爪で金属をこする音に悩まされる。洗濯物は汚される。僕が人間らしい生活をするためには、まず彼らを防ぐ必要があった。
当事そのアパートには、おびただしい数の鳩がいた。僕もはじめのうちは一生懸命追っ払った。使い古しの包丁で切りつけたこともあった。しかし彼らは数を増すばかり、挙句の果てはボイラーの裏で卵を産んで子育てなどしていた。少し大きくなると彼は羽ばたきの練習を始め、見る間に立派な大人に成長し、たちまち僕の生活を脅かす一員となった。

僕はもうあきらめた。別にいいやと放っておいた。
しかし1つ手はあった。それは、業者に頼んで鳩が入れぬようベランダに専用のネットを取り付けてもらうことだった。「いずれしなくては」と思いながら日がたった。しかし学校とサークルに精を出して慢性的に疲労している僕にそんな余力はなかった。たまの休みは一日中寝ていたかった。僕は自分の中で、言い訳を考えた。

鳩を防ぐためには業者を呼ばねばならぬ
業者を呼ぶためには部屋を片付けねばならぬ
部屋を片付けるには洗濯をせねばならぬ
洗濯物を干すにはベランダの鳩を追っ払わねばならぬ
鳩を追っ払うには業者を呼ばねばならぬ
業者を呼ぶためには部屋を片付けねば・・・ハッ!

無限ループに陥っているではないか。つまりどこからも手をつけられない。不可能!お手上げ!!ということで磐石の言い訳を築いた僕は、内なる真面目な僕を永久に凌駕し、さらなる自堕落をほしいままにするのであった。

つづく。
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by takeyabubass | 2006-01-11 23:15 | 過去

松山の冬

大学時代のアパートは、それはもう寒かった。暖房器具は、自分の体だけであった。コタツを持っていたけど、出すスペースがなかった。6畳間にベッドとデスクをおいたからである。
風呂は、ユニットバスがあったが給湯器の調子が悪いのか、いつも水と熱湯が変わりばんこに出た。ちょうどいい温度に設定しても、だんだん冷たくなっていき、しばらくしてちょうど良くなったと思ったら今度はどんどん熱くなっていく。いつまでたってもそれが繰り返される。浴びられるのは水から熱湯に変わる間の数秒間である。冬場のさむいときは困り果てた。だから3日に1回は道後温泉に通った。

部屋の中では、いつも厚手のジャンパーを着ていた。しかし足が冷えて仕方なかった。どうしようもなくなったら、もう布団に入るしかなかった。冷え込む夜は、布団に入っても寒かった。僕はがたがた震えながらうずくまっていたが、それでもしばらくしたら温かくなってきた。

部屋は、ただ眠るだけの場所だった。でなければ、布団に入って本を読むくらいであった。あとは物置みたいなものだ。人を呼んだことはほとんどない。僕はその場所が、あまり好きではなかった。いつも外にいた。かといって、積極的に人間の中へ交わろうともしなかった。

わがままを言える相手がわずかにいた。彼らの家に、よく泊まった。泊まった翌日学校に行くのはとても憂鬱な気分だった。僕は農学部だった。農学部にそんな友達はいなかったので、学校に行くのはいつも一人であった。教室でも、研究室でも一人だった。サークルがない日は放課後も一人だった。何もないときは一人でよく本屋に言った。CD屋にもいった。サークルの練習室で、一人練習したりもした。

思い返せば、友達は少なかった。それもまた、冬の寒さをきわだたせる原因だったかもしれない。ベランダに鳩がいたが、忌々しいだけだった。いくら追っ払っても去らなかった。ネットを取り付ける工事をする会社もあったが、それをやろうと思えばまず部屋を片付けねばならぬ。それが面倒で、頼む気にならなかった。僕の心はいよいよ、その部屋から遠ざかった。しかし引っ越すことはさらに面倒なことだった。

僕は極度の面倒くさがりであった。人生は、面倒なことで埋もれているように思われた。こんな面倒な思いをしてまで無理に生きることはないとも思った。その思考の延長線上には、まだ大勢の人がいた。ホームレスとか、ニートとかである。彼らの存在は、なんら不思議ではない。僕がもし農業を継げる立場にいなかったら、そうなっていたかもしれない。

面倒くさがりにとって、すべて自分で選べる「自由」な社会はつらいものだ。がちがちに固められた世襲制、封建制のほうが幸せであろう。自由な社会では、面倒くさがりは淘汰される。

おわり
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by takeyabubass | 2005-10-11 22:22 | 過去

バカ長い回想

秋風が吹くと、大学時代を思い出す。長い長い夏休みが終わって、久々に授業が始まる秋。半年間にわたる、卒論との戦いが始まった季節。今日の文章は明らかに長すぎ、文体も不親切で、読者の皆さんにとっては全て読むのは苦痛であろう。でも自分のために書いておきたい。大学時代の4年間のことを。



 竹やぶの大学時代

農学部に入った。農業に関して、バリバリ勉強しようと思っていた。1年の頃は、卓球部と合唱団をかけもちし、車の免許も取り、農作業のバイトもし、教職免許を取るための講義も受け、講義の成績はオールAだった。

2年生になり、楽なコースに所属した。無理をすることはないと、卓球部をやめた。授業は週休2日に加え、5日のうち2日が半日休みだった。空いた時間で、前期はバイトと合唱に精を出した。後期はバイトもあまりせず、合唱団の人々と毎日不毛な会議を繰り返した。当時は一生懸命やっていた。しかし、学生の本分である学問から、だんだん自分が離れていくことに対して後ろめたい気持ちがあった。アパートの窓から、川を挟んで大学が見えた。深夜まで明かりがついている。みんな勉強しているのに、僕はこれでいいんだろうか。

3年生になった。無理をすることはないと、教職免許をあきらめた。中心になって合唱団を運営した。合唱のでき自体は例年に比べていいほうではなかったが、個人的にはアカペラバンド(ながはまーず)、ミュージカル、社会人の合唱団などにも参加し、大忙しであった。学問をせねばならないとか、後年大成するために人間を磨かねばならないとか、そういうことはあまり考えなくなった。目先の物事に一生懸命になっていたら、そんな考えは頭をよぎらない。あらゆる義務感や罪悪感が、だんだんと麻痺し、消失していった時期でもある。

4年生になった。役を降り、合唱団にはあまり行かなくなった。卒論をしなければなあと思いつつ、前期は手付かずだった。講義も少なかった。バイトもしなかった。ながはまーずの練習と、パソコンのゲームと、気の会う友人との語り合いと、漫画喫茶と、夏目漱石と、アンドレアボチェッリと、道後温泉と、恋人との甘い時間で毎日が埋まった。ときどき研究室に行って周りの状況を確かめたけど、みんな同じようだった。

夏休みになった。そろそろ卒論をやらないとやばくなった。テーマは決まった。しかし何をやっていいのかわからない。教授からは、「何をやってもいい、しかし前代未聞の論文であること」という条件が課せられた。僕は大学の書庫の前に立ちすくみ、「これだけの人があらゆることについて調べつくしているというのに、いまさら僕に何を言えというのだ」と途方にくれた。不器用な僕には、既存の研究から適当に引用して論文っぽく纏め上げるようなこともできなかった。

後期が始まった。大学の二学期は10月から始まる。黄色く暖かい日差しの下では、もう秋風が吹いている。空は高く青く、構内ではプラタナスの黄色い葉がじきに落ち始める。授業はほとんどない。卒論と、ながはまーずと、ミュージカルと、合唱団と、友達と恋人で日は埋まった。秋が深まるにつれて全ての活動が忙しくなっていった。僕はフル稼働していた。

それまでの半年間、専門書や過去の研究などをはぐっては悩むことをくりかえしていたが埒が明かなかった。だからとりあえず、外にでてみる決心をした。教授の知り合いのつてで農協にいき、そこで人伝いに自分の研究対象の現場の人を紹介してもらった。いろんな施設を、手当たり次第に訪れた。片道で電車なら2・3時間、レンタカーなら2時間かかるところまで、アポを取っては何度も往復した。今思えば、かなりのお金をつぎ込んでいた。最終的に13箇所の施設に絞り込み、調査することにした。さすがに現場だけあって、「これは使える」という小ネタは少しずつ落ちていた。しかし決定的なものが足りなかった。

調査をしているうちに、中間管理職からの聞き取りからでは限界があることに気づいた。分析すべきデータもなかった。月並みだがアンケートをして独自のデータを得ないと、独自の論は展開できないと思った。そこで年内に、渾身の力をこめてアンケートを作り、配布し、返事を待った。年末は合唱団、ながはまーず、ミュージカルが同時に佳境にさしかかる時期でもあった。

数々の音楽ステージをこなし、わずかに実家で正月を過ごし、松山にもどった。アンケートの返事が来た。が、180部配ったうち40部弱しかこなかった。データとしては明らかに少ない。またしても途方にくれた。ちょうどその頃、ひろも苦戦していて、お互いに不安をかこちあった。ひろの論文にも少し協力した。

もう一度、アンケートをやることにした。今度はこたえやすいよう、ごく簡単な質問をA4一枚の裏表にまとめた。農協の人に協力してもらって、効率的に配布した。枚数も450部に増やした。卒論の提出期限は一ヶ月後に迫っていた。2週間で返事が集まり、1週間で集計・分析し、ラスト1週間で論文を書き上げるという怒涛の計画を立てた。アンケートが帰ってくるまでの間、それまでに調べていたことを論文にし始めた。1章から3章まで完成した。後はアンケート結果から、4章とまとめを書けばよい。

アンケートが返ってきた。384部、返ってきた。データ数としては十分である。まずは喜んだ。しかし勝負はそれからである。その結果から、なにか前代未聞の答えを見出さねばならない。僕は夜を徹して、たどたどしいエクセル裁きで、数百通りのクロス集計を行った。3日に一度、3時間ほど眠った。

集計の中から、前代未聞の答えを見つけた!!言葉にしたら月並みだが、データを背景に述べたのは僕が初めてであろう答えを。次はそれを論文の4・5章にはめ込んで、文体や図表やレイアウトを整えれば完成である。肉体はかつてない不健康状態だったが、省みる暇はない。最後の1週間もそのままのペースで走りぬいて、提出時刻の1分前に、ついに、ついに提出した。

エピローグがある。結局その論文は、「いろいろ盛りだくさんでおもしろい出来じゃないか」と教授に認められ、大学の紀要論文として取り上げてもらえることとなった。学士論文としては名誉なことである。まあそれも一筋縄ではなく、それから1ヶ月間、再び研究室にこもって論文を1から組みなおしたのだが。

その後ながはまーずで多くのファンに惜しまれながら(?)解散ライブをやり、ミュージカルの最終公演をやり、合唱団を卒団し、大学を無事卒業して、山のように資料の積みあがった研究室と、4年間汚しつくしたアパートを掃除して、その後1週間は何もせず余韻に浸り、そして松山を立ち、実家に帰り、農業を継いだのである。

目先のことに懸命になっていられることが幸せであると気づいた。嫌なことを無理してやる必要もないと思った。この苦しく、美しく、幸せな大学時代を、いずれ書き記したいと思っていた。再び違った切り口で書くかもしれない。最後まで読んでくれた人がいたら、「非公開」でもいいので、コメントに「読んだ」とだけ書いてくれたらうれしい。誰もいないかもしれないね。それでもいいよ。
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by takeyabubass | 2005-09-15 01:29 | 過去

ガキノコロ

小学校時代のことで、今でも誇りに思っていることがある。
それは、非常ベルを押したことだ。しかも2回。ボタンなるものを、押してみたい年頃である。きっと誰もが、押したいと思ったに違いない。

1回目に押したのは、2年生のときである。たしか掃除の時間だった。僕は雑巾で、廊下を拭いていた。ふと見上げると、そこにボタンがある。それは透き通っていて、中に赤いものが見えていた。「強く押す」と書いてある。

鼓動が高鳴った。押してはいけないとは、知っていた。しかし押しても殴られはしないと思った。押すときっとベルがなるんだろう。それが何だというんだ。謝ってすむではないか。それよりも、このこみ上げる衝動にこたえたい!勇気を出して自分の欲求を満たしたい!!
押すべきだと思った。今思えば子供心ながら、非常に冷徹にメリット・デメリットを分析している。

僕は押した。ボタンは意外とかたく、小学生の手だと、力いっぱい押し込まねばならなかった。僕は親指で、透明なるプラスチック板をぐいと押し込んだ。
ボチッと、プラスチック板は沈んだ。中の赤ポチも押し込まれた。けたたましくベルが鳴った。あたりが騒がしくなる。僕は1人、押し込まれたボタンを前につかの間の満足感を味わった。

「誰だ誰だ」
先生が走り回った。僕はすかさず、次の行動に移った。野望は達成している。後はいかに、自分に降りかかる災いを少なくするかである。僕は先生に、自ら申し出た。
「僕がやった。」
「なぜ押したのだ。」
「ボタンを、雑巾で拭いていたら誤って押してしまったのです」
あつかましくもそう言い切った。ガキの言い訳に教師がどう思ったかはわからないが、
「校長先生に謝りなさい」とだけ言われた。
僕は1人で校長室に行き、
「非常ベルを押してごめんなさい」と謝った。

2回目は確か4年生のころ、水泳が終わって着替えていたときだ。
友達に嫌なやつがいて、話の弾みで、
「非常ベルは、よう押さんやろ?」といわれた。僕はむっとして、
「押せるよ」とこたえた。
「じゃあ押してみ」と相手が言うので、
ほら、と、何の躊躇もなく押したのである。手馴れたものだ。またしてもけたたましい鐘が鳴り、周りはぞめきたった。その後のことは覚えていないが、どうせ大したことはなかったんだろう。

僕にはそういう性分がある。
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by takeyabubass | 2005-08-28 19:22 | 過去



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