結婚前はほとんどテレビを見なかった。しかし今は、妻が毎日テレビをつけるので見ている。寝るとき以外、「必ず家にいる時刻」はないので、「必ず見るテレビ番組」もない。始まったら見る。気に入らなければチャンネルを変える。だからいろんな番組を少しずつ見る。
最近ので印象に残っているのは、清水の次郎長。水戸黄門。忍たま乱太郎。おじゃる丸。野球中継、クローズアップ現代。 小沢代表の記者会見は、退屈すぎて見るにたえなかった。「国民生活の向上」ではなく「政権交代」を第一義とする党に、私は用はない。 一連の、皇室に関するニュースを見て思ったことがある。自分の沿うべき男がどの程度であれ、彼に寄り添って世間にたてつかず、生物としての喜びや苦しみを素直に受け入れる女性は、深い魅力を持っているということ。 今日の午前、ごろごろと体力の回復を図っていると、「はぐれ刑事純情派」が始まった。小学校を舞台としたストーリーだった。日ごろ家庭教師や農業体験をとおして子供に接しているので「学校」「子供」「教育」などのキーワードには敏感である。つい興味を引かれ、最後まで見た。これが意外と、おもしろかった。 誇張もあるが、今どきの子供たち、今どきの親、今どきの教育が典型的に描かれていた。学級崩壊を呈している六年生のクラスがあった。その担任(女)が、何者かにベランダから植木鉢を落とされ、意識不明の重体となってしまう。 犯人は、同じクラスの前年度の担任(女)だった。彼女が担任だった頃は、そのクラスは崩壊していなかった。しかしそれは担任が子供たちを必死に押さえつけていたからで、生徒は内心教師を憎み、教師もストレスで学校に行けなくなり、6年生に進級するとき担任を辞退した。その代わりを新任の教師が勤めた。一年前の反動もあり、クラスは全くまとまらなかった。しかし生徒一人一人は見違えるように生き生きとしてきた。生徒も先生を好いた。 それを見た旧担任は、新担任を妬み、生徒がやったように見せかけて、植木鉢をベランダから落とした。 ストーリーの重点は、犯人探しよりも現代の学校教育への問いかけであった。子供に規律を身に付けさせようとすれば教師はストレスで苦しみ、子供を許容すればクラスはまとまらず、親から苦情が来る。物語は、「躾も学問も全て教師に任せすぎるからこういうことになるんだ、俺たち親がもっとその責任を負わねばならん、」と犯人扱いされた生徒の父親(はぐれ刑事の部下)がクラスの父母の前で発言して終わる。 その後はぐれ刑事(主人公のこと。名前は知らん)が「人間ってものはな、何が正しいか分からないのが普通なんだ。何をやってもな、常に自信がないのが普通なんだ。」と訓示をたれ、部下と酒を飲む。これはつまり、「自信を持って『これが正しい』、なんて言うこと自体がおかしいんだよ」という意味であり、それはそのまま、現代の学校教育の難しさを物語っている。 僕は漠然と、小中学校の教師は大変なんだなと思った。そして自分にできることは少ししかないが、僕が教えるべき二人の生徒だけでも、社会とその子ら自信の幸せを両立できる方向に引っ張ってやれたらなと思った。そのためには少なくとも、自分がそれをできていなければならないとも思った。そしていつか生まれるだろう自分の子供を責任を持って育てることこそ、社会人として最低限の務めだなあと思った。 サスペンスも、不幸な未来のシミュレーションとしてみるならそう悪いもんじゃないよ。 #
by takeyabubass
| 2006-09-13 12:34
| なんとなく
テレビでは、奇抜な夢を目指す若者がもてはやされる。国民の受信料で成り立っているNHKまでもが、そんな番組を作っていて驚いた。おおかた、夢をもてない現代の子供たちを触発しようとやっているんだろうが、朕思うに、そんな番組は「夢をもたねばならない」という強迫観念を植え付けるだけである。
奇抜な夢など、持たないのが普通だ。かわいそうな「イイコ」は、親や先生から脅迫されていかにも夢らしいことを言っているが、大方は作り話である。その作り話に自分を沿わせようと無理している子供も多い。 そしてスポーツ選手とか、タレントとか、IT企業家とか、別に社会に無くてもいいような職業の夢がもてはやされる。お前はテレビしか見ていないのかといいたくなるような夢である。周りを見れば、いろんな職業があるのに。 「狭き門」に立ち向かうことを奨励しすぎである。狭き門とは、放っておいても誰かがやる職業だ。僕は若者に言いたい。「広き門をめざせ」と。つまり誰もやりたがらない、金にならないが社会にとって大事な仕事を見つけて、そこを攻めろと。 そういう職業は、きらびやかさなどまるでない。親がやってでもいない限り、子供の目には触れない。社会を知り、いろんなことを深く考えるようになって初めて見えてくるものだ。小学生や中学生に、夢を持つことを強制してはならない。大人の想像以上に子供たちは、企業が意図的に流した電波に洗脳されている。そんな状態で持つ夢などろくなものではない。 そうだなあ、中学生くらいまでは、親の言うとおり勉学や学校行事に励んでいればいい。公害電波に負けずに子供を正しいほうへ誘導するのは親の役目である。そして、高校を決めるからといっていきなり、むりやり夢など決めなくていい。どこの高校へでも行きたまえ。そしてやっぱり、しっかり勉強したまえ。そして落ち着いて世の中を見渡せば、自分の周りにも必ず、「自分にもできること」が見えてくる。高校生でそれが見えないなら、大学に行きたまえ。ただし、「じぶんにできること」探しは本気でやらねばならん。これがないなら、生きていてはならぬ。 「身の回りにある、自分にできること」。これがあなたの職業だ。手近な道を選ぶことはすばらしいことだ。夢と現実を突きつけられて、現実を取れる人は尊敬に値する。社会の大部分は、そういう人たちが支えている。 つかれた。おわり。 #
by takeyabubass
| 2006-08-19 18:16
青年部の演説の県大会で最優秀賞になり、近畿大会にいくことになった。久しく書き込みもせず、作文能力がなまっていて大変だった。誰が聴いてもわかりやすく、ありきたりでなく、体験に基づいていて、希望に満ち溢れた文章を意図的に生産した。
しかる後、青年部の幹部たちから過度の接待を受けた。料理屋でたらふく食べた後、カラオケバーのようなところに連れて行ってもらった。ホステスは着飾ってタバコをふかし、こちらが話さないと決まり悪そうにしていた。ああ面倒くさい、プロだろうが、場を持たせろよと思いつつ、どうでもいい話題を提供する親切な竹やぶ。人の車できているので、「つまらんから帰ります」とも言えず、最後のほうは座禅を組んで瞑想していた。帰ったら11時だった。もう懲りたので、今後は一次会で退散しよう。 わが市が多大なる血税を投入して行う夏祭りに参加した。「おかさ」という巨大な木の車を、大勢の若者が朝から晩までかけて、町中を引き回す。苛酷な労働である。ピラミッドの石を運ぶ奴隷のような感傷に浸りながら、陽炎の立ち上る炎天下の中、丸二日間やった。おかさは全部で9台ある。夜は神社に集結し、ライトアップをして、夜店や人ごみの中を行ったりきたりする。町の経済規模に対して祭りが大きすぎるきらいがある。生活と祭りはバランスをとるべきなのに、不景気な商店街が無理して祭りを続けている。何かしら悲壮であった。 新聞に、「正しい慣用句を使えない人が増えていて問題である」との記事があった。その根拠となる細かなデータも載っていた。いったい誰が、何を考えてそんな調査をしたのか。「俺は正しい言葉を知っているぞ!」と自慢したいのか。それとも無理やり問題をでっち上げないと食っていけない輩か。 多くの人が手軽に使えない時点で、慣用句としての価値はない。死ぬべき言葉は死に、変わるべき言葉は変わればよい。そんな瑣末をあげつらって「問題である」だなんて・・・。 「文化」という大義明文を盾に、あまりにも多くのムダが許されすぎる風潮がある。それは日本が爛熟している証でもある。日本は、おおいなる酔いどれの国である。 #
by takeyabubass
| 2006-07-27 13:36
| 思想
「守拙」
という言葉がある。夏目漱石が好んで使っていた。出典は定かでない。読んで字のごとく、「つたなきを、まもる」ということだ。諸芸において、下手なのが良い、という考えだ。僕も大いに賛成である。 何かにつけて、上手いものが優れていて、下手なものが劣っているという考え方が常識なので、ある程度は不本意ながらも合わせているが、僕の根底にも守拙の念がある。 いや、功より拙が優れているというのではない。功も拙もない、そこに君がいて、僕を認めてくれるのなら、それはもう絶対的な価値である。しかし世の中は功なるものを優遇する。守拙というのは、「そうではない、存在はみな、絶対的な価値だ」という意地である。 功なるものを礼賛せず、また自分もあえて拙なるものをさらけ出すことで、価値観の画一化という流れに抗っているのである。でなければ、僕はより功なるものに支配されるであろう。人から認められようと、より高いところを目指してがんばっている人は僕の敵である。 理想とは、人に迷惑をかけず、自分の中だけで追い求めるべきだというのが成熟した大人の考えだと思われる。 #
by takeyabubass
| 2006-06-25 21:41
| 思想
「自然」という言葉の意味が、自分の中で大きく変わったのはここ1,2年である。
高校時代、「自然」は「人工」の対義語に過ぎなかった。 そして、自然物は清らかで、人工物は不純であると決め付けていた。できるだけ人の手の入っていない山奥に好んで行ったり、自給自足を夢見たりしていた。 大学で、われわれの住む世界の様々な法則について学んだ。それから、「人間も、自然の一部である」と思うようになった。人工物も、とどのつまりは自然物である。「僕の意思では動かせないもの」を、自然と呼ぶことにした。つまり自己以外は、木も、石も、犬も、家族も、日本も、質量保存の法則も、みな自然というわけだ。 大学を卒業して、農業をやった。農業とは、人間以外のものたちとの対峙である。草木や、虫や、獣たちとの戦いを通して、「やはり人間と、動物や草木や石を一絡げに捉えるべきではない」と思うようになった。かといって高校時代の定義に戻ったわけではない。 高校時代、自然は無垢で、人間は汚れていると思っていた。確かに動植物は無垢である。しかし無慈悲で、無感情でもあるのだ。それにひきかえ人には、愛情があり、いたわりがある。 言葉を厳密に定義せずに話を進めて申し訳ない。しかしその面倒を冒すだけの気力がない。続ける。 僕もまた人間であるという自然。それを受け入れた。人間はまた、人間と暮らすのが自然であるということも。 かつて変遷したこれらの定義を、僕は自在に使い分けることが出来る。言葉は、経験を増すごとに広がっていくものだ。いや、あいまいになっていくとも言える。 はい、終わり! #
by takeyabubass
| 2006-06-22 23:40
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LetMeBeThe犬!(レット・ミー・ビー・ジ・ワン!) 松本リューのブログです。6年来の友人です。繊細な感覚と親しみやすい文体で、音楽評論や黄昏流星群をつづっています。 私たちの地域研究所 んまさんのブログです。農機具の部品を作っておられます。冷徹な考察と、実地でのたゆまぬ努力に基づく地域政策は、まさに圧巻です。 喫茶ゴリラ 幼なじみのご両親が営む、喫茶店のHPです。マスターと話していると、いい考えが浮かびます。近い将来、僕の音楽活動の拠点にできたらなあ。 晴漕雨読 友人、かまたにさんのブログです。仕事、読書、ネット、自転車と、非常にコントロールされた生活が伺えます。あくなきストイシズム。 ぷは ジコチュ日記 後輩、ホトリさんのブログです。現役女子大生の苦悩と諦観がにじみ出ています。痛かわいい。 駄目ぱんだ日記 ペン裏ソフト、ドライブ攻撃型のmisutinさんが兄妹で管理するブログ。内容は、アニメやゲームの批評など。辛口です。 N-style 愛媛のアカペラバンド、 ながはまーずのHPです。今は活動していませんが、再結成の可能性は高いです。 ヤブログ別館 竹やぶの写真館です。 竹やぶの里 竹やぶのホームページです。ここから筆者にメールできます。リアルな筆者への問い合わせは、こちらからお願いします。 以前の記事
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